女の一生

卒論の調査で福島に足を運んでいる。先月は何回往復したのかを数えたところ15回だった。このところずっと疲労が抜けていない。好きでやっているからと言っても、しんどいものはしんどい。

 

今回の調査は、東日本大震災が当時福島県沿岸部に在住していたワーキングマザーに対して、彼女たちのキャリアや生活にどのような影響を与えたのか、その要因を明らかにすることを主目的として行っている。

震災時の影響だけを訪ねても、彼女たちの人生にどのような影響があったのかを見ることは難しい。そこで彼女たちの最終学歴から遡って、現在まで話を伺い、その中で震災の影響を見るようにしている。

 

人の話を聞くのは常日頃から興味深い。自身の人生について語る時、納得をして折り合いをつけて来た人と、目の前の問題を保留にし続けて生きてきた人の語り方は似て非なる。言葉よりも眼差しや動作がそのひととなりを多く物語っている。

今回取材に協力してくださった女性は真面目で謙虚な人が多かった。「自分なんて大したキャリアじゃないんですけどいいんですか」と訪ねてくる方が本当に多い。私はただ瞳の奥をじっと見て「大丈夫です」と言う。今より10年以上前から女性として社会に出て、そこで子供を育てながら働き続けて来た女性たちのキャリアが「大したことがないキャリア」だとは決して思わない。

彼女たちの半生を1時間から、長いときで2時間くらいひたすら聞いているのだが、終わった頃にはお互い長い旅路をともに歩んできたような、そんな錯覚を覚えることがある。途中涙ぐむ方もいる。こういう時の正解は何かわからない。また再び口を開くまで待ち、その間決して触れることはないが、心の中では寄り添っている。

 

いわきには都度帰っていて、それなりに街の変化もわかっていたつもりだが、よくよく見ると友人たちと過ごした公園はアパートになっていたし、駅前にはタワーマンションが乱立していた。いわきは震災後地価も上昇し、人は増えたのに働き手はいつも足りておらず、真面目な人たちがどうしようもなさをぐっとこらえて働いている。生活は豊かではない。責めるべき相手は見事に雲隠れをし、責任の所在は宙に浮かび、遣る瀬無い怒りの矛先は、身近な人に向けられている。恨むべきではないひとが恨まれている。分断が進んでいる。

揺るぎない故郷は地震とともに変化し、私には故郷と呼べるのかどうかすらわからない存在になった。これから先この街がどう変わって行くのか見届けたい気持ちもあるが、もう見たくない気持ちの方が今は強い。8年経って今、私の故郷は意味のない意味を持たされ、背負わなくていい汚れを背負わされ、都合良く扱われるだけ扱われ、そうした欲にまみれた手垢がびっしりとつけられている。いつかこの街が良い意味で世間から忘れられたらいいのにという思いと、決して忘れて欲しくないという思いが私の中にも同居している。

 

こうの史代の「夕凪の街桜の国」という作品に、次の一節がある。

「ぜんたい この街の人は 不自然だ 誰もあの事を言わない いまだにわけがわからないのだ わかっているのは「死ねばいい」と誰かに思われたということ 思われたのに生き延びているということ そしていちばん怖いのは あれ以来 本当にそう思われても仕方のない 人間に自分がなってしまったことに 自分で時々 気づいてしまうことだ」

また逢う日まで

 2年前の今日友人と別れたことをふと思い出した。

 私たちはインターネットで知り合い、共通の趣味を介して仲良くなった。彼女は聡明で感受性が柔らかく、素敵な人だった。一方で、豊かな魅力を持っているにも関わらず、当時の彼女は「パートナーがいない自分は欠陥がある」という呪いに掛かっていて、その呪いが彼女の持つきらめきを曇らせているように思えた。私はそんな彼女が自分を肯定できるよう励ましたり慰めたりして、彼女が自信を持って人生を生きて行くにはどうすればいいかを考えていた。私の弱っている人を放って置けない性格と、彼女の渇望にも似た呪いはその1点においてぴったりと合っていて、私たちはプラスとマイナスの磁石が引かれ合うように親密な関係を築くようになっていった。

 しかし、その関係も長くは続かなかった。私は彼女が少しづつ依存してくることに疲弊し、また「自分のやっていることは彼女にとって本当に良いことなのか」という自問自答を繰り返すようになっていった。私自身、不安定な足場で生きる人に腰を据えて接することができる器ではなかった。結局彼女との関係は、その後のいざこざからお互いに蟠りが積もり、ある決定的な出来事を境にして疎遠になっていった。

 だがあれから2年経ち、渦中から離れて俯瞰できるようになった今、そもそも私は彼女を色眼鏡を介さずにきちんと見れていたのだろうかと思うことがある。

 私たちは「何かをする者とされる者」という関係から始まったが、関係性そのものに執着していたのは私の方ではなかったか。またその関係性が崩れることを恐れていなかったか。そもそも「必要とされたい」という渇望を私も抱えていたのではないか。

  いくつもの、それは私がそう勘違いしていただけで、彼女にとってはそうではなかったかもしれないという出来事が脳裏をよぎり、「あの時はもしかすると」が止めどなく溢れてくる。対等な友情を築こうと奮闘していた彼女を「あなたはされる者でしょう」と、その頭を押さえつけるようなことをしていなかっただろうか。対等な立場になりたいにも関わらず、いつまでも相手にそう扱ってもらえないことで自分の尊厳がじわじわと侵食されていく苦しみを私は知っている。私は彼女にそのような想いを一度たりともさせていなかったと、胸を張って言えるだろうか。

 しかしもうその答え合わせをできる相手は側におらず、後に残るのは時折煙のように表れては消えて行く亡霊のような後悔の念だけで、私ができることがあるとすれば後はその残滓から学ぶことだけのように思う。

 彼女と袂を別つような別れを経てから私の人生は緩やかに流れを変えた。恐らくお互いの人生が重なり合うことはもうないのだろうということは知っている。今自分の立つ地点から、以前私たちが立っていた場所を想う。

 それでもいつか、大河から分かれた派川が海に流れてまた一つの流れとなるように、遠くの地で互いに為すべきことを成し、また出会うことがあるのなら、その時はより豊穣な関係が結べると良いと思う。

 最後に会った日、化粧というものを殆どしていなかった彼女は珍しく綺麗な色の口紅をつけていた。彼女の人生が失うものより得るものが多く、柔らかく開かれた彩豊かなものであるように遠くから祈っている。そしてこの名状し難い気持ちは心の奥にそっと閉まって、ささやかな祝福の言葉と共に供養したい。

就職活動の振り返り

1.はじめに

 4月から開始した就職活動もようやく今月で終わりました。ご心配してくださった方々や、色々アドバイスをくださった方々、本当にありがとうございました。この場を借りて御礼申し上げます。

 先ずはここで頑張りたいなと思える会社から無事内々定をいただけたので、これまでの就職活動を振り返って反省点なども含めて時系列で振り返ろうと思います。これから就職活動や転職活動をする方の参考になれば幸いです。

 

2.自分のことについて

 まず就活の話をする前に、私のことについて触れたいと思います。というのも、私は恐らく「イレギュラーな新卒者」に該当するからです。

 私は高校を卒業してから一度社会人としての就労経験があり、4年半小売業で働いていました。その後大学に入りたいと考え受験をし、現在に至ります。なので新卒といってもすでに就労経験はありますし、年齢も就業時には28歳で、一般的な新卒の年齢である22歳〜26歳と比較してもだいぶ年上です。

 実際に就職活動をするに当たって、採用担当の方に自分は新卒枠なのか、既卒枠なのかと尋ねても企業によって回答は様々でしたし、すぐには回答ができないと言われることも多々ありました。また、新卒で受けてくださいと言われて選考に進んだものの、やはり中途で受けてくださいと言われ、2通りの選考に参加した会社もありました(ここは人事のミスのようでしたが…)。就活前の時期はインターンも何度も応募しましたが、主に年齢や就労経験を理由に全て落とされました。でも、今振り返ってみれば就活そのものが自分の研究領域なこともあり、身一つで実験しているようなところもあって面白かったです。

 なのでこの振り返りは「スタンダードな新卒者」よりも獣道を開拓していくような「イレギュラーな新卒者」に参考になるかも知れません。そのあたりも頭の隅に置いていただければと思います。

 

3.就職活動をしようと思ったきっかけ

 出だしからかなり不利な新卒での就職活動になぜ参加参加しようとしたのか?ということについてはいくつか理由があるのですが、特に決め手となったのは中途で就職するよりもより良い条件の求人が沢山あったことです。

 私は最終学歴が高卒ということもあり、大学在学中も含め中途での就職活動の厳しさを嫌というほど味わっていました(詳しくはこちら)。基本的に中途は即戦力を求められるので、よほどの専門性がない限り他業界への正社員での転職は難しかったです。しかし日本の新卒採用は概ねポテンシャルがあれば雇用してくれる企業が多く、私のような不利な立場でも受けられる企業が予想よりも多くありました(もちろん就労経験で弾かれたり、年齢で弾かれることもありましたが、そこは入っても合わなかっただろうなと思うので弾かれてよかったです笑)。

 私はこれまでの経験から一度自分のキャリアが断絶されても以前行っていた仕事が評価されるような専門性の高い仕事に就きたかったので、その時に中途で非正規雇用から経験を積んで正社員登用という狭き門を狙うのか、それとも給与は低くても新卒社員で正規雇用になってOJTも踏まえつつ経験を積むのかという2つのルートがあった時に、2つ目のルートを選んだと言ってもいいかも知れません。

 

4.就活前に迷ったこと

 これは就活中も何回も自問自答したことですが、大学院に行くか就職するかで禿げるほど悩みました。特に大学3年になってから本格的に研究が面白くなり始めてきて、それと比例するように勉強したいことがどんどん雪だるまのように増えていきました。Rを使ってWeb scrapingや分析を行ったりするのも楽しかったですし、先行研究の論文を浴びるように読んで手探りで調査することの醍醐味を知れば知るほど大学院への興味が湧いて、実際にいくつか研究室を訪ねたりもしました。

 しかし現在の私の家計の状況は自転車操業で安定しておらず、この金銭的に苦しい状況が続くことはもう限界だなとも感じていました。また、同時期に将来を約束する人ができたことで、この先一緒に生きて行く人に金銭的なことで何かを負担させたくはないという思いや、私の稼ぎがないことで将来授かるかも知れない子供に何かを諦めさせたりしたくはないと思うようになりました。

 私自身大学での専攻に対する熱意は誰にも負けないくらいありますが、頭や器量は良いほうではないので、先の見えない賭けに出るよりもまずは自分の人生の基盤を固めて、チャンスが訪れればその時にまた通えばいいと考えるようになりました。それに私が社会で働くうちに、どなたか優秀な方があるべきポジションに収まるかも知れませんし、それが望ましいようにも思います。でもきっと、折に触れて考えることではあるのでしょうね…

 

5.就職活動(前半)

 というわけで私は19卒の就職活動を4月1日の情報解禁日からスタートしました。ゼミの同期は早い人だとすでに2月には内定が出ていたりしたので、それでも遅めのスタートだったと思います。一応経団連内閣府から就活に関する指針が発表されていましたが、加盟企業以外は遵守しておらず、また加盟企業もかなりグレーゾーンなやり方をしているように感じました。なので就活生はその指針を鵜呑みにせず、早め早めに情報収集をしていたほうが良いかも知れません(それもどうなんだとは思いますが…)。

 当時の就活の軸は「ライフイベントによってキャリアが断絶しないこと、してもリカバリーができる職種であること」「大学で学んだ知識を活かせるところ」「入社後も勉強することが奨励されているところ」「主体的にキャリアが築けるところ(成果給、あるいは年功賃金制度が緩いところ)」でした。このことを踏まえて、私は4月の時点では士業と金融を中心に就職活動をしていました。また、結婚しても働き続けたいため、彼氏の勤務地から転勤することの無いエリア総合職と事務職に限定して就活をしていました。

結果としては下記の図の通りです。

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 「たった6社?」と思われる方もいるかもしれませんが、自分の希望する職種+事前の採用情報や人事に直接話をして新卒採用対象になるかを聞き、篩にかけたときに残ったのは6社だけでした。

 また、そのうち内定をいただいたのはA社とB社E社の3社でした。残念ながら他の企業とはご縁がありませんでしたが、面接を受けて「ちょっと違うかも」と感じたところは軒並み落とされているので納得度はありました。

 勿論サイレントなどもあり(本当にあるんだ〜と感動(?)したりもしました)それなりに落ち込んだりハラハラしたりしながら就活をしていたので、第一志望のE社の内定が出た時はもうこれで就活をやめようと思いました。

 

6.就活後半戦を始めたきっかけ

 しかし、その後の内定者懇親会などを経て自分の望む働き方と内定先のE社での働き方が合っていないと感じるようになり、就職活動を再開することを決めました。E社では度々先輩社員との交流会を開いてくれたのですが、その時に「大体5年働いてからやっと出産できるかなという感じ」「土日勤務も入るときがあるし、残業も月40時間は確実に超える」という話を聞いて、それまで就活で優先順位の低かった「ワークライフバランス」が引っかかるようになりました。

 先の話になりますが、私が今付き合っている方と結婚をして、出産や育児を考えた時にどちらかの親に頼ることは難しいのが現状です。物理的な距離の面でも、そしてお互いの家族もそれぞれの生活があり時間的な余裕があるわけではないので、なんとか2人で力を合わせてやっていかないといけないのに、月40時間も残業したら二人の生活が持たないのではないかと考えるようになりました。また欲を言えば、せめて3年働いたら子供も欲しいですし、5年という時間は長すぎるように感じました。

 また、企業の規模が大きい分自分の希望する部署に配属されることは確実とはいえず、長い間その企業に属してこそ実りがあるという制度設計が私の求めるキャリアを合っていないとも感じました。特に私のやりたい資産運用部門は花形なので競争率も高く、ライフイベントなどもある中でずっと同期の中で勝ち抜いていかなくてはならないプレッシャーに耐えられる自信はありませんでした。加えて、年功賃金制度に沿っての評価も給与テーブルも満足できる内容ではありませんでした。

 以上を踏まえて、もっとワークライフバランスを踏まえた就活や納得度の高い就活をしようと思い、就活を再開しました。

 

7.就職活動(後半)

 後半の就活の軸は前半の反省を生かして「ライフイベントによってキャリアが断絶しないこと、してもリカバリーができる職種であること」「大学で学んだ知識を活かせるところ」「入社後も勉強することが奨励されているところ」「主体的にキャリアが築けるところ(年功賃金制度が緩いところ)」に加えて「社員が余暇時間の過ごし方をしっかり語れるところ(残業時間週20時間)」「男性社員も育休を取得しているところ」でした。また、前半で受けられる金融系の企業は殆ど受けていたことなどもあり、後半の就職活動は金融×ITを中心に行いました。

 金融そのものは日本国内の市場規模の縮小傾向や金利政策などの影響もあって先行きが不透明ですが、ITについてはまだ伸び代がありこれからますます需要はあるだろうなと考えました。特にSEは労働市場でもかなり需要があることや、仕事内容としても専門性が身につくことから、ライフイベントでキャリアが断絶しても再就職には一定以上は困らないのではないかと思いました。さらに言えば、ITの基礎知識を持っている士業はまだまだ少ないので、まずはIT企業で経験を積みつつ余暇時間で勉強をして、ゆくゆくは自分がそうなればいいのでは無いかという考えもありました。

 後半戦の就活の結果としては下記の通りです。

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 4社中内々定をいただいたのはJ社のみ、I社は途中で辞退をしました。それ以外は書類選考で落ちています(うちG社はサイレントだったため6月末を持って諦めました)。

 後半の就活ではITを中心に受けていたこともあり、学部とは関連性がなくかつプログラミングが未経験である自分がなぜITに入りたいのかを説明して相手に納得してもらうことについて、前半よりも難易度が高かったように思います。どうしても抽象的な言葉のやり取りになってしまうため、J社については最終選考で恐らく落ちただろうなと思っていました。なので内々定の連絡を頂けた時は本当に嬉しかったです。

 というか、就活していて思ったのですがIT系は企業によってはめちゃくちゃワークライフバランスが良かったりするので(しかもキャリアアップも望める)就活を士業・金融縛りで見ていた私はそのギャップに驚きました…

 自分が入りたいと考えた企業に内々定をいただけたことで、そして納得度も高かったため就職活動はこの内々定をもって終了することに決めました。

 

8.就活を終えて

 今就活を終えて思うことは納得が行くまで就活を続けてよかったなというところです。前半で内定をもらっていた会社に納得度の低いまま就業していたら、もしかすると早いうちに離職していたかもしれないなと思います。

 また、就活を続けて自分が働く上でのプライオリティが明確になってきたこともあり、そういう意味では4月よりも早い段階から情報収集だけでもしておいたほうがよかったかもしれないなと思いました。どうしても就活が後ろ倒しになるに連れて選択肢は減ってしまうので…

 あとは中途採用と違って企業が説明会を用意してくれたり、新卒という切符を使ってOB訪問ができるアプリなどを駆使できたのはよかったなと思いました。就活は情報をどれだけ一次ソースから手に入れて、自分で精査できるかが大きいなと思います。今回手に入れた情報は、自分が転職する時にも使えそうなものもありました。

 一方でいわゆる某○kersのような口コミサイトは情報としての精度はあまり高くないので鵜呑みにすることはやめたほうがいいと感じました。古い年度のものや、社員の属性も一緒くたにされているものが多く、また口コミで辛辣な批判をしている人がどんな社員だったのかまでは見えないので…その辺りの精度が甘いなと感じました。それから某みん○は一度だけ見ましたが、そのあとは見るのを辞めました。あれをみるメリットが単純にわからないのですが、なんかこう気がまぎれたりするのかな…メンタルが弱い人や素直な人が見たらあれを見たら確かに病むかもしれません。

 それから最近はダイレクトリクルーティングのアプリが流行っているようで、オファーボックスなどを使って内定をもらっている同期もいました。あとはプログラミングができる子はpaizaというコードを書いてスカウトされるサイトに登録し、ガンガン内定をもぎ取っていました。できる人はそういうのを使ってみるのも手だとは思います。

 インターンについては私は全落ちしたので何も言えませんが、同期で行ってきた子の話を聞く限り1dayは会社説明会と変わりなく、行く意味はあまり無いとのことでした。企業にもよると思いますが、そのあたりも情報を手堅く集めて行ったほうがはずれくじを引く確率は低くなるのかな、と思います。

 

9.就活まとめ

 かなりざっくりとではありますが、これが私の就職活動の振り返りです。総じて楽しかったなと思える就活でよかったな〜と今はのほほんとしていますが、やっているときはそれなりにキツかったり怒ったりすることも合ったので喉元過ぎれば熱さを忘れるってやつですね。あとは私たちの代はいわゆる売り手市場だったので、それは幸運だったなと思います(それもどうなんだ…)。

 それから私はイレギュラーな新卒者ではありますが新卒一括採用の恩恵に、というかこの制度にかなり救われた部分もあるので一概に新卒一括採用批判もやはりできないなと思ったりもしました。

 これから勉強しなくてはならないことは多々ありますが、一つづつコツコツと頑張りたいと思います。思い出すことがあればまた何か描きたいなとは思います。まずは資格の勉強と卒論の調査を頑張ります。

 

 

 

初恋

 宇多田ヒカルの新しいアルバムを購入したけれど、恐らく今夜聴いたら明日の朝は目が腫れて大変なことになってしまうのでまだ大切にしまっておこうと思う。

 私が物心ついた頃と同時期ぐらいに彼女はデビューした。彼女の歌を始めて聞いたのはめざましテレビの音楽特集で、子供心に良い曲だなと思ったことを覚えている。歌詞の意味はよくわからなかったが、登下校中にこっそり口ずさんでみたり、母の運転する車の中でハミングしてみたりもした。

 それから幾年月が流れて彼女は活動を休止し、私の人生にも様々な事が起こった。社会に出て他の音楽を知り、趣味や嗜好も変化し、私の生活から徐々に彼女の存在は薄くなっていった。

 そんな中自分の父が亡くなる経験をした。22歳の頃だった。父を亡くしてから私の生活は一変し、それまで地続きだと信じていた日常が崩れ去り、大嵐の中に裸のままポンと放り出されたようだった。自分の中に生まれた感情をどうにかしたくてもがいても手元にある言葉では治りきらず、小説やブログや映画を見ても「これじゃない、これじゃない」と混乱を極め、どんどん疲弊していった。

 仕事をしているときはまだ正気を保てていたので、職場には早いうちから復帰したが心は空虚なままだった。無味乾燥な業務をこなしながら淡々と働いていたとき、職場の有線から流れて来たのが彼女の「桜流し」だった。

 そのとき私は品出しをしていたので「ああ、復帰したのかな」と思う程度に聞いていた。しかし曲が進むにつれて手が止まり、涙が溢れ、マスクの中は涙と鼻水で一気にぐしゃぐしゃになった。その場にしゃがみこんで、そのあとにハッとしてバックヤードに駆け込んだ。

 全ての歌詞が私の欲しかった言葉だった。父と共に過ごした幸せな情景に呼応するようにくっきりとその不在が浮かび上がる虚しさ、父が誇りを持って守って来た生活とその先に父はいないという遣る瀬無さ、生きていた間にもっとできたであろうことと、できなかった後悔。それでも人生というダイナミズムの中で生きていくということ。

 4分半という短い曲の中に父の人生があった。そして未来があった。以来飽きるほど彼女の歌を聴き、現在までリリースされた曲は全て聴いてきた。そして今日アルバムの「初恋」が発売されるまでの間に、私にも家族になりたいと思うような人ができた。

 先日首都高を運転していたとき、ラジオから「初恋」が流れて来て、父と母もこうしてこの曲のような恋をしたのだろうかと彼らの過去に想いを馳せた。私は父と母がどうやって恋に落ちて家族になったのか知らない。私が見て来たのは常に家族の中での「父」と「母」の姿だった。

 けれど今、そばにいて心から安らげる人と出会い日々を共にする中で、もしかしたら父や母もこうだったのだろうかという錯覚に陥ることがある。まるで父や母の出会いから今日までを追体験しているような。父は母と出会って恋をして、家族になることを決意して、私が生まれたのだろうか。そうであったらいいと思う。

 きっと新しいアルバムも沢山の出会いや発見があるのだろうと思う。きちんと聴けるようにそれまで楽しみにとっておきたい。

 デビュー20周年おめでとうございます。あなたとあなたの曲と生きていける幸運を噛み締めて、今日は眠ろうと思います。

 

 

非正規の友を亡くして早朝の 白む空だけ残されたまま

今朝、歌人の萩原慎一郎氏の訃報をネットニュースで知った。似たような境遇の人の死に、足元が掬われるような思いでいる。

私は高校を卒業し、正規雇用として小売業で4年半働いていた。その後2年間非正規として働き、夜間の大学へ進学。入学から現在まで依然として非正規雇用の職を転々とし、細々と食いつないでいる。

大学入学時や在学中、何度も正規雇用への転職を試みたことがあった。しかし、当時大学で昼間の講義も受講していた私は、企業の提示する勤務時間に合わせることができなかった。残業なんて以ての外だった。

また、自分が就きたいと思った仕事は殆どが大卒資格の求められる仕事だった。高卒の求人は殆どが非正規雇用で、転職エージェントに登録するも紹介できる求人は無いという連絡だけがただただ来るばかりであった。現在も転職エージェントには登録しているが、その殆どは派遣の紹介か3Kの正規雇用の案内だ。

正規雇用で真面目にコツコツ働いてきた職歴も、労働市場で評価されるものではないらしい。POSデータをエクセルに入力・分析して売り場に活かし、店舗の月目標売り上げを大幅に上回る実績を上げたことも、店舗の財務諸表を分析し、費用の削減に取り組み増収させた経験も、アルバイト採用と教育を行った経験も、国家資格を保持していることも、上司と現場の人間関係を円滑に進めるために中間管理職として機能した経験も、朝8時に出勤して25時に帰る生活に耐えうる体力も、労働市場では能力として価値が低いと見なされる現実に頭がくらくらした。

在学中は社会人時代の貯蓄と非正規での稼ぎで食いつないでいたが、首都圏での生活費の高さは次第に家計を圧迫するようになり、いわゆるワーキングプアとなった。奨学金は返済の目処のない状態で借りることに不安があり、結局現在まで利用していない。大学を続けることも諦めそうになったが、穴があくほど求人情報を見続けた結果、大卒資格さえあれば自分の人生はどうにでもなると思うようになった。かえって今安定を求めて職につくよりも、大卒で就職した方が圧倒的に給与も待遇も高い。たかが資格でと思うが、されど資格がないとどこにもいけないのがこの国の労働市場の現状だ。吉川徹氏は著書の学歴分断社会で大卒はパスポートであると仰っていたが、全く言い得て妙である。

一度挫折しそうになったものの、幸い大学では私と同じ境遇の人たちと何人か出会うことができた。皆志の高い人ばかりで、そして逞しかった。特に同じ研究室で知り合った、美容の仕事を経て大学に入り、30歳を超えて一から就活をスタートし、新卒で大企業に入った先輩の存在がなければ希望を見出せなかったように思う。

現在私も新卒と中途を並行して就職活動をしているが、新卒での就職活動の楽しさには自分でも驚いている。もちろん選考基準は企業によって異なるので、学歴や職歴で弾かれることはあるが、基本的には自分のこれまでの実績を評価してもらいやすい。先日内々定を頂いた企業の方に「あなたは人がやり抜けないような困難をやりきった、本当に素晴らしいと思う」と言って頂いた時、素直にこれまで諦めなくてよかったと思った。と同時に、諦めていたときの自分の人生を考えると背筋が凍るようだった。

また、中途では依然として評価されないことも事実だし、その傾向は強まっているように感じる。基本的に中途市場も売り手とはいえ、企業が欲しいのはポテンシャルを持った人材ではなく専門性があり企業の内部で即戦力となれる人物だからだろう。ちなみに個人的にその傾向は、大企業よりもベンチャーで求められる傾向が高いと感じている。

本来は大学で培った知識を活かして中途で人事部門に入りたい気持ちがあったが、遠回りでも地道にやって行くしかないというのが今の私の見解だ。私の代には不可能でも、いずれ今の若い世代が労働市場に供給される時、柔軟な人事制度が設計できるような人間になっていたいと思う。頑張らなくてはならない。

今、やっと明るい未来の兆しが見えてきた一方で、このまま正規雇用になれずに非正規のままでいたらきっと多くのことを諦めなくてはならなかったのだろうとも思う。そしてその延長線上に死があることは、私にとってはなんの違和感もない。いまでも首の皮一枚で繋がっている思いが私にはある。

そんな中飛び込んできた氏のニュースだったので、どうも人ごとには思えなかった。大袈裟な言い方をさせてもらえるとすれば、同志を亡くしたような気持ちにさせられた。

歌集、買おうと思います。どうか安らかに眠ってください。

 

https://www.amazon.co.jp/歌集-滑走路-萩原-慎一郎/dp/4048764772

 

就活についての雑感

最近研究室のメンバーと就活について色々と話をするのですが、その時に自分が思ったことについて書いて見ようと思います。

 

1.その企業内で生き残れるか

私の所属する研究室では10人中9人が就職活動をしているのですが、その中でも「労働市場での自分の価値を高めたい」「圧倒的な成長がしたい」と言って、若手のうちから裁量権が多く、本人の実力に応じてプロジェクトが回ってくる企業を志向する人が多い印象です。

確かに不確実性の高まる現代では大企業が安泰である確証はなく、であれば主体的にキャリアを構築する必要があるという彼らの考えも一理あるなと思います。しかし私は自分がその会社で活躍できる勝算があるか?ということも視野に入れるべきではないかと感じました。

そもそも裁量の多い仕事を回されてそれが成長に繋がったのか、それとも本人の持っているポテンシャルやスキルが高かったため成長できたのかでは大きく中身が変わります。

今は売り手市場ですが、裏を返せばそれだけ出世コースでのライバルは多いということ。であれば、同期と同じスタートラインに立った時に、自分は本当に彼らと勝ち抜いていけるのかという算段や戦略も踏まえて企業選びをする必要があるのではないかと思いました。

 

2.若いうちの圧倒的成長は本当に必要か?

例え裁量権を与えらえれて自分の成長曲線が急激に伸びても、無理が祟って途中でその曲線が止まってしまったら元の木阿弥です。それなら自分の無理のないくらいの範囲〜ちょっと無理のある範囲ぐらいで持続的に成長曲線を伸ばしていくやり方もあるのではと思ったり。

 

3.問題を先送りした方がいいこともある

就活問わず何にでも言えることではあるのですが、今考えなくていい問題は先送りした方が自分の気持ちが楽になることは往往にしてあるのではないかと思います。

 

4.結局は自分の納得度

なんとなくみんなの話を聞いていて、就活は最終的に自分の納得度が高いとその後の幸福度やハイパフォーマーへも繋がって行くのではないかなと思いました。

そのためには自己分析(心理的なものも良いですが、自分のモチベーションは具体的に何かを考えると良いと思います。お金か、やりがいか、余暇時間か、優れた仲間かなど)と、企業分析が大事だなと。当たり前なのですが、ここをすっ飛ばして就活をすると迷走し続けるような気もしています。

 

 

最後に、これは個人的な感想ですが、責任感の強い真面目な人ほど「労働市場での自分の価値を高めたい」「圧倒的な成長がしたい」と言っているように感じます。

その考えは否定しませんし、私もそうした働き方に憧れていた時期もありました。しかし、その責任感や真面目さが祟って結果的にボロボロになるまで搾取された身としてはもっと楽な選択肢を持ってもいいのではないかと思うことも事実です。

例え市場で自分の価値を需要と供給で図られる機会があっても、本来の自分はオンリーワンであることを、どうか忘れて欲しくないと思いました。

 

異なる立場の目線から

今年の夏は、卒業論文の調査として福島県に長期間滞在することになりました。久しぶりに地元で過ごす機会ができ、嬉しく思うとともに身が引き締まる思いです。

今回の研究の調査対象は、2011年3月時点で福島県いわき市に住んでいた有配偶(既婚)かつ未成年の子を持っていた女性で、震災発生時から現在までの福島県の女性の生活と雇用状況の推移を調査することが目的です。

まだまだ不勉強な部分も多く、調査設計と先行研究を往復しながら試行錯誤して取り組んでいる段階ですが、やるからにはやはり意義のあるものにしたいと考えています。

計画書を提出以前は国民生活基礎調査国勢調査などを用いてミクロ統計分析をしようと考えていましたが、それでは私が明らかにしたい「平常時の女性の潜在的脆弱性の高さ」を明らかにすることが難しいと考え直し、調査手法は聞き取り調査を中心に行うことに決めました。

と言うのも、福島県含む被災3県は震災発生時の統計データが欠落しており、加えて女性は男性と比較してライフイベントの影響が大きいため、年度ごとの集計ではわからないことの方が多いことに気づいたためです。

思い返せば、初めは統計分析に拘っていたのですが、その選択自体が研究の軸からズレていたように思います。私には定量的な数字が確固たる論拠であると言う強い思い込みがあり、フィールドワークを軽視していました。また、複雑な統計解析や機械学習といった流行りの技術を自分も身に付けたいと言う気持ちが先走り、結局は物事の本質から遠ざかっていたと反省しました。

何より自分がこれまで勉強してきた手法を信じることができないのは勿体無い。

当初の計画と調査・分析手法は異なりますが、自分のできることとそうでないことを正しく見積もって地道に続けて行こうと思った次第です。

そしてそのことに気づかせてくださった先生と、研究室の同期には感謝してもしたりません。諭してくれる人たちの存在は本当にありがたい限りです。

これから現地の女性に聞き取りを行うに当たって、まだまだ考えなくてはならないこともありますが、着実に誠実にやり遂げたいと思います。

 

今日でブログの開設から4年経ったことをリマインドで知りました。どうぞこれからもよろしくお願い致します。