初恋

 宇多田ヒカルの新しいアルバムを購入したけれど、恐らく今夜聴いたら明日の朝は目が腫れて大変なことになってしまうのでまだ大切にしまっておこうと思う。

 私が物心ついた頃と同時期ぐらいに彼女はデビューした。彼女の歌を始めて聞いたのはめざましテレビの音楽特集で、子供心に良い曲だなと思ったことを覚えている。歌詞の意味はよくわからなかったが、登下校中にこっそり口ずさんでみたり、母の運転する車の中でハミングしてみたりもした。

 それから幾年月が流れて彼女は活動を休止し、私の人生にも様々な事が起こった。社会に出て他の音楽を知り、趣味や嗜好も変化し、私の生活から徐々に彼女の存在は薄くなっていった。

 そんな中自分の父が亡くなる経験をした。22歳の頃だった。父を亡くしてから私の生活は一変し、それまで地続きだと信じていた日常が崩れ去り、大嵐の中に裸のままポンと放り出されたようだった。自分の中に生まれた感情をどうにかしたくてもがいても手元にある言葉では治りきらず、小説やブログや映画を見ても「これじゃない、これじゃない」と混乱を極め、どんどん疲弊していった。

 仕事をしているときはまだ正気を保てていたので、職場には早いうちから復帰したが心は空虚なままだった。無味乾燥な業務をこなしながら淡々と働いていたとき、職場の有線から流れて来たのが彼女の「桜流し」だった。

 そのとき私は品出しをしていたので「ああ、復帰したのかな」と思う程度に聞いていた。しかし曲が進むにつれて手が止まり、涙が溢れ、マスクの中は涙と鼻水で一気にぐしゃぐしゃになった。その場にしゃがみこんで、そのあとにハッとしてバックヤードに駆け込んだ。

 全ての歌詞が私の欲しかった言葉だった。父と共に過ごした幸せな情景に呼応するようにくっきりとその不在が浮かび上がる虚しさ、父が誇りを持って守って来た生活とその先に父はいないという遣る瀬無さ、生きていた間にもっとできたであろうことと、できなかった後悔。それでも人生というダイナミズムの中で生きていくということ。

 4分半という短い曲の中に父の人生があった。そして未来があった。以来飽きるほど彼女の歌を聴き、現在までリリースされた曲は全て聴いてきた。そして今日アルバムの「初恋」が発売されるまでの間に、私にも家族になりたいと思うような人ができた。

 先日首都高を運転していたとき、ラジオから「初恋」が流れて来て、父と母もこうしてこの曲のような恋をしたのだろうかと彼らの過去に想いを馳せた。私は父と母がどうやって恋に落ちて家族になったのか知らない。私が見て来たのは常に家族の中での「父」と「母」の姿だった。

 けれど今、そばにいて心から安らげる人と出会い日々を共にする中で、もしかしたら父や母もこうだったのだろうかという錯覚に陥ることがある。まるで父や母の出会いから今日までを追体験しているような。父は母と出会って恋をして、家族になることを決意して、私が生まれたのだろうか。そうであったらいいと思う。

 きっと新しいアルバムも沢山の出会いや発見があるのだろうと思う。きちんと聴けるようにそれまで楽しみにとっておきたい。

 デビュー20周年おめでとうございます。あなたとあなたの曲と生きていける幸運を噛み締めて、今日は眠ろうと思います。