また逢う日まで

 2年前の今日友人と別れたことをふと思い出した。

 私たちはインターネットで知り合い、共通の趣味を介して仲良くなった。彼女は聡明で感受性が柔らかく、素敵な人だった。一方で、豊かな魅力を持っているにも関わらず、当時の彼女は「パートナーがいない自分は欠陥がある」という呪いに掛かっていて、その呪いが彼女の持つきらめきを曇らせているように思えた。私はそんな彼女が自分を肯定できるよう励ましたり慰めたりして、彼女が自信を持って人生を生きて行くにはどうすればいいかを考えていた。私の弱っている人を放って置けない性格と、彼女の渇望にも似た呪いはその1点においてぴったりと合っていて、私たちはプラスとマイナスの磁石が引かれ合うように親密な関係を築くようになっていった。

 しかし、その関係も長くは続かなかった。私は彼女が少しづつ依存してくることに疲弊し、また「自分のやっていることは彼女にとって本当に良いことなのか」という自問自答を繰り返すようになっていった。私自身、不安定な足場で生きる人に腰を据えて接することができる器ではなかった。結局彼女との関係は、その後のいざこざからお互いに蟠りが積もり、ある決定的な出来事を境にして疎遠になっていった。

 だがあれから2年経ち、渦中から離れて俯瞰できるようになった今、そもそも私は彼女を色眼鏡を介さずにきちんと見れていたのだろうかと思うことがある。

 私たちは「何かをする者とされる者」という関係から始まったが、関係性そのものに執着していたのは私の方ではなかったか。またその関係性が崩れることを恐れていなかったか。そもそも「必要とされたい」という渇望を私も抱えていたのではないか。

  いくつもの、それは私がそう勘違いしていただけで、彼女にとってはそうではなかったかもしれないという出来事が脳裏をよぎり、「あの時はもしかすると」が止めどなく溢れてくる。対等な友情を築こうと奮闘していた彼女を「あなたはされる者でしょう」と、その頭を押さえつけるようなことをしていなかっただろうか。対等な立場になりたいにも関わらず、いつまでも相手にそう扱ってもらえないことで自分の尊厳がじわじわと侵食されていく苦しみを私は知っている。私は彼女にそのような想いを一度たりともさせていなかったと、胸を張って言えるだろうか。

 しかしもうその答え合わせをできる相手は側におらず、後に残るのは時折煙のように表れては消えて行く亡霊のような後悔の念だけで、私ができることがあるとすれば後はその残滓から学ぶことだけのように思う。

 彼女と袂を別つような別れを経てから私の人生は緩やかに流れを変えた。恐らくお互いの人生が重なり合うことはもうないのだろうということは知っている。今自分の立つ地点から、以前私たちが立っていた場所を想う。

 それでもいつか、大河から分かれた派川が海に流れてまた一つの流れとなるように、遠くの地で互いに為すべきことを成し、また出会うことがあるのなら、その時はより豊穣な関係が結べると良いと思う。

 最後に会った日、化粧というものを殆どしていなかった彼女は珍しく綺麗な色の口紅をつけていた。彼女の人生が失うものより得るものが多く、柔らかく開かれた彩豊かなものであるように遠くから祈っている。そしてこの名状し難い気持ちは心の奥にそっと閉まって、ささやかな祝福の言葉と共に供養したい。