女の一生

卒論の調査で福島に足を運んでいる。先月は何回往復したのかを数えたところ15回だった。このところずっと疲労が抜けていない。好きでやっているからと言っても、しんどいものはしんどい。

 

今回の調査は、東日本大震災が当時福島県沿岸部に在住していたワーキングマザーに対して、彼女たちのキャリアや生活にどのような影響を与えたのか、その要因を明らかにすることを主目的として行っている。

震災時の影響だけを訪ねても、彼女たちの人生にどのような影響があったのかを見ることは難しい。そこで彼女たちの最終学歴から遡って、現在まで話を伺い、その中で震災の影響を見るようにしている。

 

人の話を聞くのは常日頃から興味深い。自身の人生について語る時、納得をして折り合いをつけて来た人と、目の前の問題を保留にし続けて生きてきた人の語り方は似て非なる。言葉よりも眼差しや動作がそのひととなりを多く物語っている。

今回取材に協力してくださった女性は真面目で謙虚な人が多かった。「自分なんて大したキャリアじゃないんですけどいいんですか」と訪ねてくる方が本当に多い。私はただ瞳の奥をじっと見て「大丈夫です」と言う。今より10年以上前から女性として社会に出て、そこで子供を育てながら働き続けて来た女性たちのキャリアが「大したことがないキャリア」だとは決して思わない。

彼女たちの半生を1時間から、長いときで2時間くらいひたすら聞いているのだが、終わった頃にはお互い長い旅路をともに歩んできたような、そんな錯覚を覚えることがある。途中涙ぐむ方もいる。こういう時の正解は何かわからない。また再び口を開くまで待ち、その間決して触れることはないが、心の中では寄り添っている。

 

いわきには都度帰っていて、それなりに街の変化もわかっていたつもりだが、よくよく見ると友人たちと過ごした公園はアパートになっていたし、駅前にはタワーマンションが乱立していた。いわきは震災後地価も上昇し、人は増えたのに働き手はいつも足りておらず、真面目な人たちがどうしようもなさをぐっとこらえて働いている。生活は豊かではない。責めるべき相手は見事に雲隠れをし、責任の所在は宙に浮かび、遣る瀬無い怒りの矛先は、身近な人に向けられている。恨むべきではないひとが恨まれている。分断が進んでいる。

揺るぎない故郷は地震とともに変化し、私には故郷と呼べるのかどうかすらわからない存在になった。これから先この街がどう変わって行くのか見届けたい気持ちもあるが、もう見たくない気持ちの方が今は強い。8年経って今、私の故郷は意味のない意味を持たされ、背負わなくていい汚れを背負わされ、都合良く扱われるだけ扱われ、そうした欲にまみれた手垢がびっしりとつけられている。いつかこの街が良い意味で世間から忘れられたらいいのにという思いと、決して忘れて欲しくないという思いが私の中にも同居している。

 

こうの史代の「夕凪の街桜の国」という作品に、次の一節がある。

「ぜんたい この街の人は 不自然だ 誰もあの事を言わない いまだにわけがわからないのだ わかっているのは「死ねばいい」と誰かに思われたということ 思われたのに生き延びているということ そしていちばん怖いのは あれ以来 本当にそう思われても仕方のない 人間に自分がなってしまったことに 自分で時々 気づいてしまうことだ」