TOKIOについて福島県出身者が思うこと

1.はじめに

  まず初めに、この記事はこの度山口達也氏が起こした事件について、彼を擁護する意図は一切ありません。もちろん彼の芸能活動を通じた福島での活動については、勇気付けられ、励まされることが多々ありました。震災後福島で暮らす人々の生活に寄り添ってくださった、稀有な存在であることも存じています。

 しかし、今回彼が被害者に対して行ったことは、どんな背景があったとしても、ひとりの大人として決して許せることではありません。

 自分の力ではどうにもならないことに巻き込まれた後、日常を取り戻すことが如何に大変か。まずは1日でも早く被害者の方が穏やかな日常を取り戻し、安心して生活できることを願ってやみません。

 

2.一連の騒動について

 震災以前からテレビの企画を通じて、福島の特に沿岸部に暮らす人々とTOKIOは長く付き合ってきた経緯があります。私自身小学生の頃は何度か撮影現場の近くまで、友人と遊びに行ったことがありました。特に災害後は福島県に暮らす者にとって、原発事故による風評被害の影響は辛く厳しいものがあり、その中でTOKIOがメディアを通じて行う福島との関わり方の過不足ない姿勢には、私自身何度も支えられてきました。

 本心を言えばTOKIOにこれからもPRを担って頂きたいですし、山口氏の起こした事件を連帯責任として他の4人が背負うことも望んでいません。しかし、そんな中で福島県TOKIOを起用していたPRを白紙に戻したことが発表されました。

www.nikkei.com

 すでにネットでは、PRを白紙に戻した福島県を批判する声や、TOKIOのPR起用の存続を希望する声が上がっています。確かにそのような意見が出るのも最もだと思います。私個人としても正直この決定は辛く、落胆しました。ただ批判する前に、一度俯瞰して考えてはもらえないだろうかとも思ったことも事実です。

 確かに今回の福島県の行為は、これまで福島を応援して下さったTOKIOの皆さんに、後ろ足で砂をかけるやり方のように見えたかも知れません。しかし、行政の財政における予算の制約や、今年のPR期間が迫っていたことを考えると、活動自体に不安要素が多い今のTOKIOを起用することは、やはり難しかったように思われます。不安要素を抱えたままPRに予算を割くことができるほど福島の財政状況は決して潤沢なものではありません。

 何よりその決断までには、至極当然のことながら様々な過程があったはずで、それを度外視して福島県を、またその決定を県の総意として批判されるのは、誠実さに欠ける批判であると思います。

 このような決定は往々にして県民一人一人の意見が吸い上げられ、反映されるものではありません。今後福島の行政の決定が民意と混同され、さらにネガティブイメージが強化され、当事者である生産者の方々に影響が及ばないことを今は懸念しています。また、もし県が今後TOKIOとの契約を一切行わないと言ったとしても、それは行政の意思で個人の意思とは異なるということは、どうか彼らに届いていて欲しいと思います。

 

 加えて、今度は福島がTOKIOを応援するという趣旨のムーブメントも目にしました。正直このムーブメントは誘惑でした。できればこの流れに乗って、TOKIOを無垢に応援する福島県民のポジションで様々なことを語れれば、どんなに楽でわかりやすいかと思わなかったわけではありません。

 しかし一方でそのムーブメントに乗ることは、被害者の人生を考えるとためらいがあります。この流れを作ることは、TOKIOの受難と再生というシナリオに加担してしまわないか。そしてそのシナリオの道具に被害者の人生を巻き込むことでは無いのか。また、このようなムーブメントは一過性の側面も強く、その勢いが物事の本質を覆い隠すこともあり得る話です。ですので、この流れには慎重にならざるを得ないな、というのが今の判断です。

 では一体何が正解なのか。この状況下で言えることがあるとすれば、生活していくこと、ただその一言に尽きるのではないかと私は思います。そしてその生活の一部として、これから福島とTOKIOはどのような関係性を築いていくのかを、ずっと考えていく。ここで福島とTOKIOの縁が切れるとは思いませんし、縁というのは物理的なもの、地理的なもの、あるいは表層化しているものだけが全てではありません。

 今後考え続けた先に、新しい福島と彼らの在り方が見つかればと思います。

 

 

3.現在の福島の農業の状況

 今回の会見で、TOKIOの4名が福島の野菜の安全性を訴える内容のやりとりがありました。

mainichi.jp

 このような状況下でも福島を気遣っていただき、有難いなと思う一方で、今後は福島県も彼らの芸能人としての力に依存するPR以外の方法や、マーケティング戦略を考えていかなくては今後本当の復興には至らないのではないだろうかと考えます。

 災害時から7年もの月日が流れましたが、原発事故によって福島県の農業を中心とした産業が受けた被害は甚大なものであり、依然として風評被害は根強く残っています。

 例えば三菱総合研究所の「東京五輪を迎えるにあたり、福島県の復興状況や放射線の健康影響に対する認識をあらためて確かにすることが必要(その1) 」では福島県産食品についての意識調査の結果が下記の図に表されています。

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この調査から、他県産品と(福島県産品を)比較して値段や変わりがない場合、自分が食べる場合を除いて各項目で3割以上の人々が未だ放射線を気にして躊躇していることがわかりました。また、自分が食べることについては気にしないが、それ以外の他者に勧めることについては抵抗がある傾向が見られます。

 さらに消費者庁の「食品と放射能に関する消費者理解増進の取組」から平成30年3月7日に発表された「風評被害に関する消費者意識の実態調査(第11回)」によると、放射性物質を理由に購入をためらう産地は福島県が12.7%であり、第1回目の調査から6.7%減少しているものの、その推移は緩やかであり、消費者不安の払拭には長い時間がかかることが読み取れます。

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  次に、福島県の農林水産物が平成29年7月に公表した「福島県農林水産業の現状 」によると、県の農業産出額・生産農業所得の推移の現状については以下の通りです。

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まず福島県の農業産出額の推移について、報告書によると「平成 27 年の農業産出額は 1,973 億円で、前年と比べ 136 億円(7.4%)の増加」とあります。この内容だと順調に産出額が回復しているように考えられますが、災害時前の平成22年の2,330億円と比較するとその数字にはまだ開きがあることも事実です。

また、生産農業所得についても「生産農業所得は 864 億円で、前年比 82 億円(10.5%)の増加」とありますが 平成22年の数字を比較すると同様に数字の回復には至っていないことがわかります。

ただし、同報告書によると福島県の農家人口、農業就業人口、基幹的農業従事者数はいずれも減少しており、耕地利用率についても震災以降、数値は横ばいの推移を辿っています。

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 農業に従事する人口が減少しており、耕地利用率も足踏みをしている現状で農業産出額を震災以前の水準に戻すには、福島の農作物をまずは適正価格で流通させ、場合によってはブランド化する戦略を取ることも視野に入れる必要があるでしょう。

なお、現在も福島県の野菜は震災以前の水準の価格には戻っていません。

www.nikkei.com

 以上のデータから、震災から7年経過した現在においても福島県の農産業における風評被害インパクトは大きく、今後長期的に消費者の不安を払拭することと、併せて戦略的なマーケティングも必要になることが予想されます。 

 そして、その消費者と福島をつなげてくれるのメディアの存在は無視できません。下の図は三菱総合研究所東京五輪を迎えるにあたり、福島県の復興状況や放射線の健康影響に対する認識をあらためて確かにすることが必要(その2)」の復興状況に関する情報の入手媒体についての調査結果です。

 

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 さらに同調査によると「「テレビやラジオ」を選択した回答者に、追加で番組名を尋ねた。最も多かったものは「ニュースや報道番組」の45.3%だった。さらに具体的に「NHK」という放送局名を回答した割合が21.2%を占めた。」とありました。

 TOKIOのCMのPR効果や、彼らの番組についての直接のデータは無いため以下は推測になりますが、やはり既存メディアの影響力は大きいことは無視できません。TOKIOのPR効果についても、同じ媒体を使用するものとして同様だったのではないかと推察します。

 しかしこのような状況になった今、今後は福島の安全性を訴えるためには芸能人の力に依存することや、既存のメディアが積極的に報じてくれることをただ待つやり方は見直さなくてはならないでしょう。PRの手法に限定して考えるのであれば、今後はオウンドメディアのようなフレキシブルかつレジリエントなPR体制の構築も、福島県は視野に入れることが必要なのでは無いかと思います。 

 

4.終わりに 

 震災から7年経ちました。未だ福島県では帰還困難区域が残り、その解除については確実な見通しはまだ立っていません。TOKIODASH村もその区域内にあり、いつか再開する日を一人の視聴者として、また長年福島に住んでいた者として楽しみにしていました。もちろん、今回の一連の騒動で気持ちが乱れることもありましたが、彼らが会見で福島を裏切ったことについて申し訳ないと言ったことには、反論したい気持ちがあります。

 私個人の意見として言うならば、まずあの時震災後の混沌とした状況下で、福島への協力を決断してくださったこと、そして福島を特別視することなく、そこにある生活を一緒に歩んでくださったこと、そして重荷を一緒に背負ってくださったことについて感謝の気持ちでいっぱいです。謝るのは、こちらの方だとも思います。勝手な願いではありますが、彼らには福島を嫌いにならないで欲しいと思ってしまうのも、また本心です。そして可能であれば、また彼らと復興までの道程を歩みたいと思います。

 

 10年以上福島と接点を持ってくれた人たちに、これ以上不義理を働きたく無い想いで勢い経って記事を書くことにしましたが、何かと粗が目立つ内容もあるかと思います。ご承知いただければ幸いです。ご指摘などありましたら、残していただければと思います。長文の記事をここまでお読みくださりありがとうございました。

桜の樹の下には

毎年この季節になると、梶井基次郎の「桜の樹の下には」を思い出す。

思えば春は私にとって忌々しい季節であると同時に、自分の人生に何かしらの影響を与える季節でもあったな、と振り返って思う。

今年の父の命日は、初めて地元に帰らなかった。理由は特にない。3月11日は黙祷をして、恋人と鎌倉で過ごした。ここの海は素知らぬ顔で穏やかだ。何かしらそれらしいことをブログに記そうか迷ったが、あの出来事を語るとき、その言葉には意味以上の意味がついてしまうようで、それが鬱陶しく感じてやめた。

春休み前、講義でグループディスカッションがあった。在日とは何かという議題に、周りの人から飛び出す発言は、信じられないくらいに差別的で衝撃を受けた。「性悪」「税金泥棒」「野蛮」「気違い」「あっちの女はみんな整形している」「日本から出ていけばいい」。目眩と吐き気、嫌悪感。もっと他に論じるべきことがあるでしょうと頭に血が登りそうになったけれど、言い返す気も起きずにやめた。私たちのイメージでしか彼らを語ることができなかったということに、一体この中の何人が気がついたのだろうか。

その少し前、電車内で見知らぬ女の人に足を蹴られた。明らかに言いがかりだったが、その言葉のアクセントと悪態の語彙で中国人だな、ということがわかった。昔祖父から教えてもらった中国語。電車から降りて、駅員さんの前で話を聞いてもらおうと説得したが、彼女は座席にしがみついて降りなかった。車内の人には誰も助けて貰えず、少し離れたところにいる男性が動きで動画をとっていることに気づいた。その日は仕方なく電車を降り、職場へ向かった。これだから中国人は、とは思わなかったと言えば嘘になる。それでも様々な背景を考えて、関係ないな、と気持ちを落ち着けた。日本人だって、助けてくれなかった。

台湾で地震があり、現地に住む友人に連絡をとった。なんとかやっていきます、と彼女は言っている。知人を亡くしたらしく、これより規模の大きい東北の地震は本当に大変でしたねと言う。東日本大震災の死者・行方不明者数は2018年の時点では22,118名だという。海の底に眠る人々を思う。

私の人生の下にも夥しい数の屍体が埋まっている。春。

 

 

梶井基次郎 桜の樹の下には

新年の抱負

遅ればせながら、新年あけましておめでとうございます。

去年の末から今年の正月にかけては、高校の数学の学び直しに明け暮れていました。もしタイムマシンがあれば、高校1年の夏に「もう数学なんて一生勉強しない!」と決めた自分をお願いだから考え直せと諭しに行きたいくらいです。

元々出身高校は進学校でしたが、普通の進学校とは異なり総合高校だったため、大枠のカリキュラムに沿って、自分の選びたい科目を選択しなくてはならない制度でした。本来なら、バランスよく科目を選択するべきだったのですが、元々中学の頃から数学が苦手だった私は、高校入学後はこれ以上数学を勉強したくない一心で、ありとあらゆる数学の要素を含む学問を選択肢から除外していきました。

しかし、その後紆余曲折して大学に入学し、いざ卒業論文に取り掛かろうとしたときに、数学の知識が足りないことによって、分析手法の選択肢がぐっと少なくなるという事実に直面しました。もちろん高等数学の知識を必要としない分析手法は多々ありますし、手法として劣ると考えているわけではありません。しかし、昨今のevidence-bacedの潮流に見られるように、科学的な分析手法に基づいた論文は信頼されやすい傾向にありますし、それを形成できるだけのスキルは大学内外問わず必要になってくるものだと考えます。

せっかく大学に入ったわけですし、自分に足りない論路的な思考力、専門的な知識の獲得、アカデミックライティングのスキル等を身につけるためにも卒業論文に挑戦したい。しかし、単位にならない卒業論文を情熱と意欲だけで書くのは(現在私が通う大学は社会人コースに限り、卒業論文が単位認定されません)自分なりのインセンティブを設定しないと難しい。

そこで、自分の作成した卒業論文は、最終的にこのブログで公表することに決めました。

私にとっての卒業論文に取り掛かるインセンティブは、卒論を通じて獲得できるスキルの他に、うまくいけば、社会的に僅かながらインパクトを与えられることだと思います。卒業論文のテーマは福島に限定しますが、震災を経験した宮城、岩手の人たち、その後の熊本の震災や、これから未来にもあるであろう災害被害に遭われる人たちについて、こういう考え方もありますがどうですか、という声を届けたい。そのためには、適当にではなく、そして信頼度の高い分析がしたい。私の論文が誰かを救えるとは思いませんが、せめてその人が苦しむ現実を分析する枠組みを提示することが出来たら。今の自分が言うのは本当におこがましい限りなのですが…

誰に頼まれたわけでもないですし、自分のエゴが大半である自覚もあります。指導してくださる先生は、自分の興味のあることをテーマにと言いますが、本当にこのテーマで良いのか不安になることも多々あります。震災から今日までのことについて、先行研究を読んでも感情が揺さぶられないよう、冷静に対峙して行けるように、もっと学ばなくてはなりません。

しかし、もう数学は勉強したくないという一心で決別したものの、巡り巡って大学で数学を勉強しているのはなんとも因果だな、と思う次第です。人より歩みの遅い人生ではありますが、なんとかやっていきたい所存です。本年もよろしくお願い致します。

 

進路どうですか?

現在新卒として就職活動中ではありますが、悩ましいことがいくつかあるので整理がてら。

 

まず一つ目は職歴が4年弱あると基本的に中途採用であること。興味のある企業の採用ページを確認し、掲載されていない企業には採用担当者宛に質問のメールを送りましたが、やはり自分の職歴では中途枠での採用を案内される確率が高いです。

中途での採用の場合、基本的に企業内部で即戦力として扱われることや、OJTが新卒者と相対すると薄い傾向にあるので、そうなると今の私自身の能力と自助努力(主に就業時間後のOff-JT)でキャッチアップできる職種や企業をシビアに検討する必要があるかな、と思います。

私の職歴は正規雇用の時より非正規雇用の時の方が長いのと、サービス業にいた歴が長いので、違う職種を目指している今はできれば新卒でとってもらってしっかり教育も受けたいと思っていましたが、それが難しいのであれば別の計画も立てないといけないな、というところです。

話は逸れますが、新卒採用も最近では環境適用力や即戦力に近いものを求められる傾向があるみたいですね。雇用システムのあり方によって、新卒者に求められる能力というのも少なからず変わってくると思うので、これから先の新卒者はなかなか大変だろうなと思います。

 

二つ目は自分のキャリアとワークライフバランスについてです。

今後のキャリアについて、大学に通って身につけた専門性を活かしたい、あるいは高めたい気持ちがありますが、そのような職種でバリバリ働きたいかと言われると言葉に詰まってしまいます。というのも前職では働きすぎて身体を壊してしまった経験があるからです。

仕事に育ててもらうようなキャリアの積み方に憧れる気持ちも勿論ありますが、おそらく私の体力的に難しい。また、私は自己肯定感があまり高くない方なので、自分の能力より高い水準の仕事が慢性的に回ってくる職場では不必要にのめり込んで軸を失いそうだな、とも思います。今の私の身の丈にあった頑張り方としては、自分の余暇時間もしっかりとって、勉強し、キャリアアップを図ることではないかと考えます。

しかし、ワークライフバランスをライフよりで構築したいと考えると企業内部での昇進からは遠いポジションを選ばざるを得ないことも事実です。一般職や事務職を軽んじる訳ではありませんし、むしろ尊敬していますが、その職種内で形成されるキャリアについては自分が主体的に動かないと構築が難しいだろうなと感じます。

ライフよりの時間拘束で自分の求めるキャリア形成とマッチする企業を探してはいるものの、現状最もマッチングするところはまだありません。

また、今後結婚や妊娠、出産などのライフイベントを考えると、私は頼れる実家が遠いため必然的に自分で色々と用意しないといけないわけですが、そのイベントが終わっても会社に復帰できるのかとても心配です。また、周りの出産した友人を見ていると、戻ってくる意思が産む前はあったけれど、子供が生まれたら可愛くて心配でキャリアを中断しても一緒にいたいという人が思いの他多く、自分もそうなるのではないかという思いもあります。であれば自分のキャリア形成はキャリアが中断することも視野に入れた計画を立てないといけないのだろうな、とは思いつつ、それは何だろうと現状手探りの段階です。

 

まだこの他にもありますが、今きちんと言語化できているのはこのあたりまでです。最適解は何か、答えがない問いは禅問答のようで疲弊してしまいますが、せめて自分を見失わずに考えて行きたいなと思います。

 

 

 

近況報告

ふと思い立って久しぶりにブログを開いてみましたが、なんと2015年を最後に更新していなかったのですね。いやはや。来年はもう少し意欲的に更新したいところです。

 

さて、近況の報告と致しまして、今は関東に身を置き大学生として生活しております。学部は経済で、専門は労働経済学です。現在は卒論に向けてロードマップとプロポーザルを纏めている段階ですが、毎日自分の基礎知識の足りなさ、理解度の低さに直面しており、日々慌ただしく過ごしております。

そもそも大学に行こうと思ったのは、東日本大震災や身内の死を経験し、もう一度きちんと勉強がしたいと思ったからでした。

昔、高校で進路を選択するときに、私は当時尊敬する先生の勧めもあって、明治大学に進学しようと思っていました。しかし、受験勉強中に「特に大学で学びたいことも、やりたいこともないままに大学に行って、高いお金を払って授業を受ける意味はあるのだろうか」「であれば自分でお金を稼いで、働くうちに学びたいことが見つかったときに進学したい」と考えるようになりました。あとは少なからず、親に金銭面で負担をかけたくないというのもあったように思います。

そこで進路を変更し、地元の小売業に新卒で入社、その後4年弱働き続けました。地元で働いていたのも、今思えばそれなりに楽しかったですし、おそらく東日本大震災や身内の死がなければ、あのまま地元でのんびりと楽しく暮らす人生もあったのかもしれません。過ぎたことについて考えることは意味がないことかもしれませんが。

その後、前に書いた様々な理由から一念発起し大学に進学、現在無事大学3年生になることができ、日々楽しく過ごしております。このあたりについては別の記事で詳しくかければ良いなと思っております。

自分の能力のなさに打ちのめされることも多々ありますが、やはり勉強するのは楽しいです。大学という場所がどのような場であるか、何を学べるところなのかということは、やはり大学に入って実際に体験しなければ分かり得ないところが大きいのではないでしょうか。少なくとも私は入学してから今日までを振り返るとそう思います。

また、これは私の場合ですが、やはり目的意識を持って入ることができて良かったように思います。優秀な学生たちと比べれば、私はその足元にも及ばないと自負しておりますが、学問に対する情熱を持っていることは唯一誇れることではないかなと、そしてその情熱を支えてくれているのは社会人での経験であったと感じます。

幸い、私は指導教官に恵まれ、尊敬できる友人たちにも出会うことができました。今の環境に感謝して、今後とも精進していこうと思う所存です。

ちなみに現時点での卒業論文ですが、東日本大震災福島県の雇用に与えたインパクトについて書いていく予定です。このあたりも定期的に報告ができればいいなと思いつつ…

ご無沙汰しています

このところ忙しく、ブログを更新することができませんでした。

たまたまホーム画面を開いたら前回の記事にコメントがついていて、とても嬉しい気持ちになりました。気がつくのが遅くなってごめんなさい、そして本当にありがとうございます。

人生にはこうして時々思いもかけないプレゼントのような出来事があると思うとまた明日から頑張れそうです。

だいぶ秋めいて来て、気温の変化も激しくなってきましたので皆様くれぐれもお身体には気をつけてください。

またそのうち更新できたらな、と思います。

春に

震災から4年たっても本質的なところは何も変わっていないのではないかと考える日々です。

今日は中間貯蔵施設が福島にも出来ることが決まったというニュースを見て、頭ではまぁそうなるよねと理解できるものの、一抹のやりきれなさがあるのもまた事実でした。

復興についてなかなか足並みも揃わないのはそれだけ福島の抱えている問題が複雑だということ。この4年の間に明確にされたもの、より深層化していったものを思うと唇をただただ噛みしめることしかできず、そうした自分に苛立つばかりです。

この4年間復興という言葉に振り回され、打ちのめされる人たちを何人も見て来ました。傷ついて心を閉ざし、第一線から退いて行った人たち。わたし自身今でも引き裂かれる想いで、それは体感としてより深まるばかりです。

忘れたくないけど忘れていくこと、時の流れと共に自分の中でも変質していく想いをどうすれば良いのか、どう付き合って行けば良いのかわからずただ怒りと哀しみを持て余している状況を、どうしたら整理できるのか、何が答えなのかをずっと考えていますが、それらしい答えはまだ見つかりません。

地元のひとたちと話していると、ユーモアのなかにもどきっとさせられる瞬間があります。笑い飛ばすことでかなしみを共有しているような。そうした空気を感じると胸が締め付けられそうになって、負けないくらいわたしも笑います。